TRAVEL〜Poland(2018.11.24〜11.29)〜
【3日目(2018年11月26日)】
〜スケジュール〜
| 7:30 | ホテル出発 専用車にてオシフィエンチムへ。 |
| 9:30 | アウシュヴィッツ強制収容所 見学 ビルケナウ強制収容所 見学 |
| 12:00 | オシフィエンチムのレストランにて昼食 |
| 13:00頃 | 専用車にてヴィエリチカへ。 |
| 15:00頃 | ヴィエリチカ岩塩坑 観光 |
| 16:50頃 | 専用車にてクラクフへ。 |
| 18:00頃 | レストランにて夕食。 ホテルへ。 |

一夜明けました。

朝食はコンチネンタルスタイル。
メニューとしては見た目変わりないデスが、普通に美味しかったデス。
マフィンのようなパンとデニッシュで糖分補給。
今日は心して過ごす一日になりマス。
これ以降、約半日分の内容は非常に重い内容になっていマス。閲覧注意デス。
内容的にも十分に注意して書かせて頂いていマスが、不適切な表現がありましたらご容赦ください。
天候は曇り。
専用車に揺られて約1時間半。オシフィエンチムへ。
耳慣れてしまっているアウシュヴィッツという言葉はドイツ語で、ドイツ軍によって勝手に付けられた地名であり、本当の地名はオシフィエンチムといいマス。
ドイツ・ナチスによって作られた収容所には種類がありました。
強制労働収容所という労働が目的の収容所がまず一つ。クラクフのプワシュフ収容所は映画『シンドラーのリスト』の舞台デス。
そして、絶滅収容所という収容された人々の絶滅を目的として、連行されてきた人々をガス室等で殺害する収容所があり、当時最大の収容所であるアウシュヴィッツの他に5箇所がありました。
そのうちの一つ、トレブリンカ収容所は子どもの権利や教育を守るために尽力した小児科医のコルチャック先生が亡くなられた場所デス。しかし、ドイツ軍が証拠隠滅を図って収容所を破壊したため、現在は当時の建物は一切残されていません。

【アウシュヴィッツ−ビルケナウ〜ドイツ・ナチスの強制・絶滅収容所】世界遺産
第二次世界大戦下、ポーランドがナチス・ドイツの支配下に置かれていた1940年に、ポーランド人の政治犯を収容するために造られました。
次第にユダヤ人やロマ(ジプシー),ソ連軍捕虜をも収容し、施設は拡大されて殺人工場と化しました。
アウシュヴィッツにおいて、110万人の方が亡くなられたとされていマスが、ドイツ軍が証拠隠滅したため推定値でしかありません。130万人の方が連行されたとされており、うち110万人の方がここで亡くなったのデス。
当時のままの状態で極力保存されていて、現在、第一収容所(基幹収容所)と第二収容所(ビルケナウ)は博物館として公開されていマスが、老朽化も進んでいマス。本来は第三収容所(モノヴィッツ)も存在しましたが、解放直後にソ連軍によって破壊され、現存しません。
1979年に世界遺産登録されました。
内部の撮影も可能デスがフラッシュ撮影は禁止で、一部撮影不可のエリアもありマス。
また手荷物として持ち込めるのはA4サイズ未満のものと限られているので、注意が必要デス。
ワタシも鎌倉のお土産屋さんのナイロン袋に必要物品を入れて入場しました。

厳しい試験をパスした専門のガイドさんたちが、この負の遺産の語り手として歴史を受け継いでいマス。
その中に唯一人、中谷剛さんという日本人ガイドさんがいて、ガイドブックにも載っていマスが、難関のポーランド語による試験を突破して1997年から活動されていマス。
ワタシたちは現地ガイドさんが案内して下さり、日本人ツアーガイドさんが通訳して下さる形でしたが、ワタシたちの後ろの組は中谷さんがガイドされていました。
場内はかなりの人で混んでいましたが、ヨーロッパ諸国からの見学者が多いように見えました。


【アウシュヴィッツ】
まず入口に掲げられているゲートにはドイツ語で「ARBEIT MACHT FREI」と書かれており、これは“働けば自由になれる”という意味だそうデス。
絶滅を目的とした絶滅収容所において、生きて還れる可能性はほとんどありませんでした。

逃亡を防ぐために張り巡らされた有刺鉄線の中側へと進んでいきマス。
この有刺鉄線には、220Vの高圧電流が流されていたそうデス。


厨房(写真上)。
当時、ポーランドの政治犯やユダヤ人を含む多民族からなる被収容者の男性音楽隊が存在しました。
彼らはこの厨房の前で、労働班が仕事に出たり、収容所に戻ったりする合図として行進曲を演奏させられました。
しかし、時には被収容者のための演奏も許されました。



30近い収容棟が存在し、整然と並んでいマス。

4号棟:絶滅計画。
こちらでは、当時撮影された写真や貴重な資料が保管・展示されていマス。

ヨーロッパ中から約130万人が連行され、約110万人がここで犠牲になりました。
内訳として、ユダヤ人110万人,ポーランド人14~15万人,ロマ (ジプシー)2万3000人,ソ連軍捕虜1万5000人,その他2万5000人が連行され、ユダヤ人100万人,ポーランド人7万〜7万5000人,ロマ (ジプシー)2万1000人,ソ連軍捕虜1万4000人,その他1万〜1万5000人が犠牲になったと言われていマス。
ドイツ軍は聖職者や政治犯をいち早く収容するコトで思想を統制しやすくし、残った農民は“良い暮らしを与える”と言われて移住に必要な列車のチケット(収容所行き)や架空の土 地の保証書などを買わされ、強制移住させられました。巧妙に仕組まれていて、農民が去っていった土地にはドイツ人が移住しました。

ヒトラーがユダヤ人を迫害した理由は諸説ありマス。
ユダヤ人迫害の歴史はナチスによるもの以前から繰り返されており、ローマ時代に宗教観の違いから反乱を起こしたユダヤ民族をローマ帝国が滅ぼし、ユダヤ人は完全な離散民族になったと言われてマス。そして、1100年〜1600年にかけてヨーロッパ・キリスト教社会から迫害を受け続け、ユダヤ人はヨーロッパ全土に追放・離散。スペイン,イギリス,フランス,ポルトガルなどでユダヤ人虐殺が行われた歴史がありマス。
しかし、国を持たない民族集団でありながら、ユダヤ人同士の結束力は固く、“塵も積もれば山となる”の考えから脅威と捉えられていました。
また、ユダヤ人はアインシュタインなど優秀な人材が多く、財に富んでいて、ビジネスがうまいと考えられていました。ヒトラーには先見の銘があり、ユダヤ人の高い知能が世界情勢をも変える力があると考えていました。
そして、ヒトラーはドイツの東側の地域を領土として広げる“東方生存圏”という政策を推し進めようと考えていたため、東ヨーロッパに多く住んでいるユダヤ人が邪魔だったとも言われていマス。
収容所に連行されたユダヤ人の内訳は、ハンガリー43万人と最も多く、 ポーランド30万人,フランス6万9000人,オランダ6万人,ギリシャ5万5000人,チェコ・テレジンシュタド4万6000人,スロバキア2万 7000人,ベルギー2万5000人,ドイツとオーストリア2万3000人,ユーゴスラビア1万人,イタリア7500人,ノルウェー690人,その他場所 不明3万4000人の計110万人と言われていマス。
今までポーランド人が最も多かったのかと思っていましたが、ハンガリー人が最も多かったのデスね。
ワタシが知らないだけカモしれませんが、ホロコーストを扱う映画の世界でハンガリーを舞台としたものは見たコトが無く、ほとんどがポーランドだったので。
まだまだ何も当時の状況を知らなかったのだと、勉強不足を思い知りました。
鉄道によって収容所に一斉連行されると、全財産である荷物を全て没収され、ドイツ人医師が労働力や研究対象として使い物になるかどうかを判断し、使い物に ならないと判断されると“シャワーを浴びさせる”と言われてガス室へ連れて行かれ、多くの方が窒息死させられました。そして、窒息死した人々から人毛や人 骨や人脂などが採取され、毛布や電気スタンド,石鹸など様々な製品に変えられ、軍資金として使われていました。
一方、収容された人々は衛生管理のためだと言われて髪を切られ、囚人服に着替えさせられ、一日11時間もの過酷な労働を強いられました。満足に栄養も与えられず、冬は極寒の地となり、長くて数ヶ月しか生きられなかったそうデス。


囚人とする人々を連行するために、このように鉄道が轢かれていました。


第二収容所にあったガス室の模型デス。
一度に1500人もの人命を奪うコトが出来ました。

そして、これがガス室で使われていたチクロンBという殺虫剤デス。
4号棟では亡くなられた方の遺灰を収めた慰霊碑や人毛などが展示されていマス。
人毛の量はあまりに多量で、胸が詰まりました。

5号棟:犯罪証拠。
こちらでは、連行された人々が没収された品々を展示していマス。
衣服,トランク,靴,コイン,ホーロー鍋,缶詰の缶,ハンドクリームの缶に至るまで、大量の品々が今も大切に保管されていマス。
多くは遺品のため、写真の掲載は控えさせて頂きマス。
当時のまま保存されているので、靴や衣服は歪んで黒ずんでいて、大量すぎるためにペアが分からない状態デス。
一家での引越しと考えて家財を運んできたので、お鍋も大量に持ち込まれ、色とりどりの鍋が一部錆びた状態で保管されていマス。
ハンドクリームの缶はニベアのものなどもありました。
障害者は真っ先に絶滅の対象にされたので、義手義足も多量に没収されました。
トランクにはあとで帰る時に分からなくならないようにと住所や名前も書かされたそうデスが、それも安心させて大人しく財産を渡させるための口車だったワケです。
現在の保管品は数にして、靴は11万足以上,トランク3800個,鍋1万2000個,眼鏡約40kg,義手・義足470本,囚人服375着。
このあまりに膨大な量の遺品には全て持ち主がいて、それぞれの人々の生活や幸せがあったと思うと、とても無念だったと思いマスし、憤りを隠せません。


他の棟へと進んでいきマス。

7号棟:住居・衛生状態。
被収容者の部屋を再現した棟デス。

最初の数ヶ月はコンクリートの硬い床に藁(写真上左)や藁布団(写真上右)を敷いたところに重なり合うようにして寝かせられ、徐々に三段の簡易寝台へと変えられました。
収容所は人で溢れかえっていたので、この棟の収容人数を700人としていましたが、実際はその数を超えていました。

秩序維持者と言われる棟監の部屋。明らかな違いがありマス。

簡易トイレ(写真左)と衛生設備(写真右)。
衛生設備の壁には入浴する子どもの絵が描かれているので、おそらくこの細くて狭い管に流される水で入浴や整容等を行わされていました。
また、棟監は排泄できる時間を短くしたりと、理不尽な命令や禁制を強いていました。
実はこれらの展示室の前の廊下には、ここに実際に収容されていた方たちの顔写真と名前,収容理由・期間などが書かれているバネルがぎっしり展示されていマス。
上記の写真はその方たちの姿を映さないように編集させて頂いていマスので、分かりにくいところもあるかと思いマス。
収容所での囚人カテゴリーは、@ユダヤ人,A政治犯(ポーランドレジス タンス・文化人・学者など),B反社会的分子(ロマ),Cソ連軍捕虜,D教育囚人(労働規制の違反者またはその嫌疑をかけられた人),Eポーランド人(ゲ シュタポの刑務所で溢れ出た犯罪者で、公式にはアウシュヴィッツの囚人ではない),F刑事犯(主にドイツ人の囚人),Gエホバの証人(宗教的信条を問題視 された主にドイツ人),Hホモ(主にドイツ人の同性愛者)に分けられていて、囚人服に縫い付けられた印と色で見分けられるようになっていました。
囚人は名前を奪われ、囚人番号として登録され、番号を皮膚に刺青されました。
約130万人が連行されて、うち登録され囚人となったのが40万人。
そして、そのうちの50%は重労働,飢餓,死刑執行,病気・伝染病,犯罪的実験や拷問によって命を落としました。
更に20万人近くが他の収容所に移されて命を落とし、アウシュヴィッツ収容所が解放された時には約7500人しか残っていませんでした。

10号棟:人体実験施設。
ここは内部見学はできません。
ここでは、数百人におよぶユダヤ人女性が断種実験としておぞましい不妊手術を施行され、多くが実験中・後に死亡したり、死体解剖のために殺されたりしました。そして、生還者の大半は不随になりました。
また、ナチスは犯罪者や同性愛者でないドイツ人の優秀な遺伝子を増やすために、双生児の研究も行っていたとされ、研究材料として双生児の子どもも収容されました。
本当に非人道的な思想で、想像するのも恐ろしい話デス。

11号棟中庭:死の壁。
10号棟と11号棟の間にある広場には、銃殺刑が行われた“死の壁”と呼ばれる塀がありマス。
11号棟は収容所の中の監獄と言われていて、11号棟の側面の扉から死刑囚が連れ出されました。
死刑執行の場面を他の被収容者に見られないように、10号棟と11号棟の窓は板で覆われていました。
また、懲罰のための鞭打ち台や絞首台もありました。
実物は1944年にドイツが解体し、現在は復元されたものが展示されていマス。
ここで刑事犯や11号棟に収監された者,他の収容所や刑務所から連行されたソ連軍捕虜やポーランド人が銃殺され、その数は分かっていません。
今でも祈りを捧げる方が後を絶たず、お花が手向けられ続けていマス。

11号棟:死のブロック。
収容所内の刑務所だった場所デス。1階と2階は懲罰を受けた被収容者と刑事犯が収監されました。
1943年からここでドイツ緊急裁判が開かれ、抵抗運動者や市民と接触した容疑者,被収容者を助けた者や脱走に失敗した者は地下に収監されました。
地下には餓死牢や窒息牢,立ち牢などの監房があり、1941年にチクロンBを使った初めての多量殺人が試行されました。
そして、窓一つ無い閉鎖された部屋もあれば、明かり窓のある部屋もありましたが、窓が積雪で覆われると窒息してしまう被収容者もいました。
地下牢は撮影禁止で、18番牢は飢餓刑囚の身代わりを名乗り出て亡くなられた、コルベ神父が収監されていました。
コルベ神父は第二次世界大戦前に日本へ布教活動に来られたコトもある方で、のちにローマ法王により聖人に列せられました。

集団絞首台。
収容所の厨房前にあり、こちらも復元されたものデス。
絞首刑は見せしめのために点呼の際に執行されました。
犠牲者の大半は脱走に失敗した者や脱走を幇助した者でした。


有刺鉄線と看守塔。
SS(ナチス親衛隊)関連施設のある区域と収容施設は2重の有刺鉄線で区切られていました(写真下)。
被収容者の中には、絶望して自ら身を投げた方もいたそうデス。


SS関連の施設。見学はできません。

収容所所長の処刑場。
階段や絞首台周辺の建築基礎は収容所のゲシュタポ(秘密国家警察)事務所の跡デス。
ここで、抵抗活動や脱走工作の容疑者の尋問・拷問が行われました。
そして1947年4月16日に、この場所で収容所の初代所長ルドルフ・ヘスがポーランド最高人民裁判所の判決により絞首刑に処されました。

ガス室と焼却炉。
ポーランド軍の倉庫だった場所で、1940年ドイツによって死体保管所 に充てられ、横にある3台の焼却炉で一日340人の遺体が焼かれていました。その後、1941〜1942年まで死体保管所がガス室として使われました。入 口前の広場は脱衣場として使われ、天井に空いた穴からチクロンBが放り込まれました。
1944年にビルケナウのガス室と焼却炉が始動すると、ドイツは焼却炉と煙突を解体しましたが、SS用の防空壕として使われました。
戦後、2つの焼却炉と煙突が復元されました。

ここまででアウシュヴィッツ強制収容所をあとにしました。
再び専用車で移動し、10分ほどでビルケナウに到着デス。
アウシュヴィッツとビルケナウは約2km離れた場所にありマス。

【ビルケナウ】
300棟以上のバラックが並ぶ、アウシュヴィッツより更に大規模な絶滅収容所でした。東京ドーム約37個分。
1941年に建設が開始され、1945年にソ連軍によって解放されるまでに百数十万人が亡くなりました。


周囲を畑に囲まれた郊外に存在しマス。


「死の門」(写真上)と言われた門をくぐって中に入ると、見渡す限り草の生い茂った広大な敷地にバラックが点々と残されていマス。



線路を中心に左右に広がる草原に見た目に無数のバラックが存在し、煉瓦造りのもの(写真最下)は老朽化しながらも残されていマスが、木造のもの(写真中2枚)の多くは煉瓦造りの煙突部分を残すのみとなっていマス。木材は戦後の復興資材として使われました。


連行に使われた輸送列車と線路。
窓のない列車にギュウギュウ詰めに押し込められて、多くの人が連行されてきました。
列車の線路はガス室のある建物へと続いていました。




新来者受入所。
列車を降りると、この建物の前で医師が命の仕分けを行いました。
新来者から没収された品々は、当時“カナダ”と呼ばれる保管庫に収容されたそうデス。カナダは当時、裕福な国と考えられていたのでそのように呼ばれていたそうデス。


ガス室と焼却炉。
ここで100万人近いユダヤ人が亡くなりました。
この焼却炉は近代的な焼却装置で、一日に5つの焼却炉で4756体の遺体を焼き、灰にしました。
解放直前にドイツ軍が証拠隠滅を図り、今は残骸しか残っていません。
被収容者は焼却炉も自分たちの手で造らされ、拒否すれば殺害されました。


アウシュヴィッツ犠牲者追悼碑(写真上)。
1967年に建てられ、戦争中にガス室へ導いた線路の先に在りマス。
アウシュヴィッツ強制移住者が使っていた主に23語の言語のプレートが並べられていマス。
そして、ここで追悼式典が開かれていマス。
写真下は1943年に撮影された焼却炉の完成写真デス。

人骨の灰を撒いた池。
ガス室で殺害された方たちの遺灰はこの地にばら撒かれました。
また、ゾンダーコマンドの反乱という悲しい悲劇も記録されていマス。
殺害された遺体をガス室から引き出したのは、ゾンダーコマンドと呼ばれたユダヤ人被収容者でした。
彼らは、焼却前に遺体から金歯や宝石などを取り、髪を切りました。
1944年にソンダーコマンドの反乱があり、彼らは親衛隊を襲って焼却炉の一部を破壊しましたが、反乱を起こした者を含め450名の被収容者が報復・殺害されました。


子どものバラック。
煉瓦造りの収容施設の一部は中まで見学できマス。
といってもほとんどの施設が老朽化のため、安全上の観点から徐々に見学できなくなってマス。
このビルケナウでアンネ・フランクは亡くなりました。
700人収容の煉瓦のバラックは女性や子ども用で、内部には60個の三段の蚕棚のような木造ベッドが石造りの床の上に建てられていて、人々は身を寄せ合って寝ていました。小さな暖炉だけで、冷たい床に藁を敷き、毛布を2〜3人で使っていたため極寒でした。
そして、400人収容用の木製のバラックは男性用で、暖房はありましたが燃料は十分に供給されず、窓が無く、衛生設備の使用制限や人の密集によりシラミやネズミが発生し、伝染病の発生原因となりました。
11月のポーランドは雪は降ってはいませんでしたが、寒かったデス。
ダウンジャケットにカイロを付けてもなお寒いのに、当時は−20℃にもなった日があったそうデスから、極寒の地で生き残るコトは非常に困難であったと容易く想像が出来マス。
多くの目を覆いたくなるような現実が残されていて胸が詰まる思いでしたが、第二次世界大戦下のホロコースト政策によって、現実にどのようなコトが行われていたのかを改めて勉強させて頂きました。
その多くは、映画の世界で知った以上の凄惨な状況で、想像を絶する恐怖と憤りを感じるものでした。
この収容所を残す活動を始めたのは実際の元被収容者の方たちで、高齢化し、その多くは亡くなられていマス。
日本のヒロシマ・ナガサキと同様、語り手が少なくなっていっている現状で、多くの方が未来の平和のために遺して下さったこの遺産を、未来へとつなげていく役目を果たさなければならないと痛感しました。
小休止しましょう。
ランチはオシフィエンチムのレストランで頂きました。


あまりに悲惨かつ鮮烈な印象を受けて、ランチのコトをはっきり覚えていないのデスが、同じツアー参加者の皆さんと先ほどの見学内容についていろいろ話して、気持ちを落ち着けました。
温かくて美味しいスープとパン、そして白身魚のソテーを沢山の付け合せの野菜と共に食べられる幸せを感じないといけないデスね。
約1時間半、再び専用車で移動しマス。

【ヴィエリチカ岩塩坑】世界遺産
1250年〜1950年まで稼働していた、世界有数の規模の岩塩採掘場。
廃坑になっていない岩塩坑としては世界最古で、世界最古の製塩企業と言われていマス。
1978年に世界遺産登録され、2013年にボフニア王立岩塩坑も新たに世界遺産に加わりました。
地下64〜325mに渡って入り組んだ採掘場の一部、約3kmが観光用として公開されていマス。
採掘跡の空間に岩塩で作られた王や妖精やコペルニクスなど、数々の彫刻が並べられていマス。
壁や天井には鍾乳石のような塩の結晶が溶け出していて、塩で出来たつららの先から濃い塩水が滴り落ちていマス。
採掘場の気温は年間を通して14℃と寒いそうデス。
15時頃に到着しましたが、曇り空というコトもあり、もう夕暮れ。
ワタシはポヤンとしてるので、3日目にしてようやく気づきましたが。。。
この時期のポーランドは15時頃には夕暮れで、更にポーランド自体が車移動に時間のかかる国なので、今回参加のツアーでは一日に2ヶ所の観光スポットしか回れない。
そのため、1ヶ所目は明るいうちに観光出来ても、2ヶ所目は写真も薄暗くなってしまう(^^;)
まぁ、今回3日目は見どころが多かったというコトもありマスが、冬の長いポーランドのツアーを検討する時には注意が必要デス。

専用エレベーターで地階へと潜りマス。

地面からの深さ64m(写真左)。ここから歩いて下って行きマス。
外も寒いので特別寒いとは感じませんでしたが、夏ならひんやりすると思いマス。
採掘のための装置が再現されていマス(写真右)。

岩塩坑を掘り進めるとともに、このような木材の足場が組まれ、人道が出来て行きました。

採掘に使われた装置はより深部にまで組まれていマス。

写真左は表面がツルツルの白い木材で補強されていマスが、剥き出しになった岩塩部分は塩が染みてツルツルになっていマス(写真右)。

コペルニクスの岩塩像。
コペルニクスはポーランド・トルン出身の天文学者で、地動説を唱えた方デス。またカトリックの司祭でも医者でも占星術師でもありました。
コペルニクス博物館は各地にあり、ワルシャワにはコペルニクス科学センターも建てられました。
コペルニクスはポーランドの人々にとって、知の象徴であり、今でも敬われていマス。

ところどころに岩塩で出来た彫刻が配されていマス。
様々なテーマで掘られていて、写真はハンガリー王女のキンガ姫の物語の一節。


岩塩の岩肌(写真上・左),長年塩水が染み込んで出来た塩の木組み(写真上・右),結晶化した岩塩の床(写真下)。

特大の掘削装置。
人力だけでなく馬力も使って掘削作業は行われ、掘削・採掘された岩塩は馬によって運ばれました。

岩肌にはいくつか火を灯していた跡が再現されていマス。地下から発生するメタンガスによって頻回に爆発事故が起きていたため、坑夫は火を灯して坑内に入り身を守りました。

2日目の記述にも登場したカジミエシュ3世の像。

掘削機の操作を体験できるところもありマス。

塩を運ぶ妖精の彫刻も見られマス。
階段を下って、更に下部へと進んでいきマス。

今でも塩水が流れ出ていマス。
塩は結晶化し、鍾乳石のような状態になってマス。
ここの塩水は触れられ、なめられマスが、塩分濃度30%とものすごくしょっぱいデス(>_<)!

ところどころに塩水の池が存在しマス。塩の妖精たち。

聖十字架礼拝堂。
地上から地階へと進む道に大小いくつかの教会部屋が存在しマス。
それはどんどん下へ下へ掘り進むたびに、地上に戻らなくても安全祈願のための祈りを捧げられる場所を設ける必要があったからデス。
そして、ポーランド人は本当に信仰心に篤いコトも見て取れマス。

【聖キンガ礼拝堂】
ヴィエリチカ岩塩坑で最も有名な眺めデス。地下101m。
こちらも坑夫の安全祈願と礼拝のため、70年もかけて造られた礼拝堂デス。
採掘のために多くの鉱夫が命を落としていました。
この礼拝堂はポーランド王妃で、ハンガリー王女だったキンガ姫の伝説にちなんで造られました。
ポーランドに嫁ぐコトになった王女は結婚に気が進まず、ハンガリーの岩塩坑に結婚指輪を投げ捨てました。
そして、ハンガリーから輸入した岩塩石の貯蔵場になっていたヴィエリチカ村から、王妃の結婚指輪が見つかったとの知らせを受けて確認に行くと、岩塩の山の中から捨てたはずの指輪を発見。
これを偶然とは思えぬと地中を掘り進んでいくと、岩塩層が出てきたというお話デス。
キンガ姫は岩塩層を発見した姫として、鉱山家の守護神とされているそうデス。
上記に一度出てきた彫刻の一節がこのお話を表していマス。
祭壇から彫刻,絵画に至るまで全て岩塩石から掘り出されており、シャンデリアは塩の結晶から作られていマス。
その精巧な彫刻や装飾は圧巻デス!
素朴だけど、上品な豪華さもあり、静かで厳かな雰囲気デス。

今でもこの礼拝堂ではミサや結婚式が行われているそうデス。

中央の祭壇。


キリストの伝説に基づいた壁画の岩塩彫刻が両サイドに刻まれていマス。
写真・中は“最後の晩餐”。



このシャンデリア、よく見ればホントにお塩の結晶デス。
クリスタルのように綺麗に見えます☆☆☆
静かで本当に幻想的な空間デス。

ポーランド人のローマ法王 ヨハネ・パウロ2世像。

聖キンガ大聖堂を造った3人の坑夫の名前がプレート型に刻まれていマス。

緑色に輝く塩湖。とても美しいデス♪

17世紀に造られた木組みデス。
松の木に石灰を塗ってコーティングするコトで、火事対策をしていたそうデス。

鉱山労働者に捧げられた像(写真左)とポーランド建国の父・ピウスツキ元帥の像(写真右)。

以前、ボートでこの湖を対岸に渡るアトラクションがあったそうデスが、転覆事故があり、閉鎖されました。
非常に濃い塩分濃度の塩水では下に沈み込むコトが出来ず、転覆したボートの下から抜け出せなかったそうデス。

この岩塩坑は、世界で初めて世界遺産登録された場所の一つだそうデス。
その記念プレートが出口に彫り込まれていました。

出口を出てすぐにあるイベント会場。

そして、こちらにも礼拝堂がありマス。
観光を終えて、外に出てみると17時近くで真っ暗。
専用車でクラクフへ移動しマス。

ディナーはミシュランの星を獲得している、クラクフ市内のレストラン。

盛りだくさんの一日でしたが、とても充実していました。
アップルジュースとコールスローのようなサラダ。

ゴヴォンブキというポーランド風ロールキャベツ。
豚肉とお米が入っていて、酸味を抑えたまろやかなソースで絶品でした!
ポーランドに来たら、絶対に食べてもらいたい一品 ベスト3!!!

デザートのポーランド風チーズケーキとカフェオレ。
チーズケーキは酪農王国であるポーランドのデザートの定番で、チーズケーキの起源だとも言われていマス。
日本のチーズケーキよりあっさりしていて、スポンジ感の方が強かったデス。

そして、ホテルに戻って3日目終了。
ホテルのロビーには大きなクリスマスツリーが飾られていました。
部屋に戻って、盛り塩をしてお祈りしました。
どうか戦争で亡くなった全ての方々が安らかに眠られ、ワタシたちの未来を守ってくださいマスように。
明日は自由時間のある観光最終日。
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